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2006年11月19日 (日)

「怪獣使いの遺産」

なんかずっと引っかかっていて、ぼんやりと考えていたんですよ。

「問題作」と言われる作品の場合、オリジナルの制作者以外の人が続編やリメイクをするとなると、前作が問題提起として投げつけたものについて「私はこう受け止めましたよ」という解釈の提示が大前提にありますから、
視聴者としても「あなたの解釈はもっともだ。支持しますよ」と言うか「ああ、そう受け取りましたか。私は違うと思いますけど」と言うかの2種類を基本にして、その間にグラデーションがかかった意見分布になりますよね。この場合、視聴者の括りにオリジナルの制作者も含まれるでしょうけど。

前作「怪獣使いと少年」の場合、少数派(ここでの場合メイツ星人&浮浪孤児の少年)を異分子として数の論理で廃絶しようとする多数派(周囲の住民=日本国民&警官=国家権力)の対立があり、その狭間に立ってしまったウルトラマンとMATの無力な様(これは視聴者と同じ立ち位置と考えて良いでしょう)が物語全体の軸になっています。
最終的にメイツ星人は混乱の中で警官の誤発砲により死んでしまい、生前のメイツ星人が少年(=地球人)を救うために封印した怪獣が出現し、(結果的に)住民たちを粛正するがごとく破壊を開始します。

ウルトラマン=郷秀樹は、怪獣をやっつけろ、という住民の声を心の中で非難し、変身をためらいます。怪獣出現の(文字通り)「引き金」を引いたのは無知、無理解な住民の人間性そのものだったからです。このあたりの展開は当時子供だった私も固唾を呑んだものです。目の前では怪獣によって刻々と街が破壊されてゆきます。しかし、あんなに身勝手な住民を救う意味があるのか。

しかし、ここでシナリオは意識的に、これまで無力だったウルトラマン&MATの立ち位置を前面に押し出してきます。
「帰ってきたウルトラマン」というテレビシリーズ全体の基本設定構造から言って、ウルトラマンは(人類からすれば)「人類にとっての平和と正義の味方」であり、郷秀樹はMAT(モンスター・アタック・チーム)の隊員であり、人類の生命と財産を脅かす者と戦わねばなりません。これはウルトラマン&MATに与えられた、この作品世界における義務であり責任だからです。

羊の群れのように徒党を組んで多数=正義のように振る舞い、少数派を封殺しようとする者たちに対し「どうしようもないものだ」という達観というか諦観を抱きながら、しかしそれを義務と責任感において救わなければならない。
そういった苦悩を昇華した形なのでしょう、僧の姿で現れたMAT隊長・伊吹の言葉によって郷はウルトラマンに変身し、怪獣を倒します。

ここまでの展開でも解るように「〜遺産」は「〜少年」と比較して細かいエピソード配分の違いやキャラクター配置の差違はありますが、それを無視すれば物語構造の意味性はほぼ相似形とも言えるものです。
最大の設定上の差違といえばヒカリ=メビウスが地球人に正体を明かしたウルトラマンである点で、それが問題解決の助けになっていない事が揶揄されるかもしれませんが、メビウス=ルーキー=未熟者というシリーズの基本設定からすると当然とも言えます。

しかし、こと結末については両者は大きく異なった印象を残します。
「〜少年」ではメイツ星人の死後、再び天涯孤独となった少年が、どこかに埋もれているはずのメイツ星人の宇宙船を掘り出そうと、ただただ無心に穴を掘り続けます。事件のあと、何事もなかったかのように静まりかえった風景。恐らく住民たちも何事もなかったかのように「これまでと同じ」生活を続けているのだろうということが子供心にも感じられた、やるせない結末です。

それに対し「〜遺産」は、今回起こった事件をきっかけとして未来に希望を託そうという極めてマイルド、意地の悪い言い方をすればうやむやな結末です。
「変わっていこう」という「決意」というより「変わって欲しい」という「願い」を強く感じます。
これを表題通り好解釈するか、自分たちで問題を解決出来ず先送りにした、大人の責任放棄と捉えるかは現在の主たる視聴者である子供たち次第なのでしょうから、私がどうこう言う事ではありません。

ただ、大人であり親である私としては、これからの世代の自然な変化を大人たちが一方的に望むようなニュアンスは、子供たちに対する無条件な性善説の押しつけのような印象が私自身ありますし、そういう解釈からすると、この未解決の問題は後世(作品世界内でのもの)においては「遺産」どころか「負の遺産」になりかねないのではないかという気もして、少々複雑な気分になってしまいました。

いずれにせよ、今回の「〜遺産」は続編やリメイク製作ということについて色々考えさせてくれる機会をもらったという点では意義があったと言えるでしょう。

余談ですが、ちょっと別な展開の妄想もしてたんですよ。

もしメイツ星人が一人ではなく「侵略者を撃て」の時のバルタン星人のように数億人が乗った宇宙船で使節団としてやって来たらどうなったのか(数の論理の反転)

もしウルトラマンと戦うのがムルチではなく巨大化したメイツ星人だとしたら、作中の幼稚園児たちはやはり「がんばれメビウス!」と叫んだに違いないだろうな、とか(正義と悪の判別が美醜の区別と繋がる怖さ)。

まあ、すぐこういう事を考えてしまうのがオタクオヤジの困ったところですが(苦笑)。
なんかウダウダ書きすぎましたが、おかげでなんだかスッキリしました。

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コメント

手塚治虫の「ブラックジャック」もTVアニメ化に際し、
患者が亡くなってしまうエピソードが改変されて
違和感を感じました。
子供の頃に「やるせない思い」を経験しておくことが
人間にとって必要だという思いもありますし、
「~少年」みたいにテーマ投げっぱなし、っていうのも
一つの「答え」と言えるのではないですかね。
自分にとっては
「彼は今もどこかで宇宙船を探し続けているのかも知れない」
という負のベクトルの「永遠の少年像」があります。
子供たちと取り組んでいるドラマは10月21日に
クランクアップして編集作業が始まりましたが、
出演してくれた子供たちと、完成した作品を見て
くれる子供たちになにがどう伝わるか、まあ迷っていても
始まらないのでとにかく頑張ります。


>だいすけさん
そうですねぇ・・・なんだか最近の作品って、作りの根幹が「やさしさ」のように見えて「制作側の、各方面への配慮」だったりすることもあったりするんでしょうし、なんだかよくわからない事もあります。
「こういった問題はこういう方向で解決されるべきなのです」と優等生的に発言されても「そうはいかないから、みんな苦しんでんだろ!」と言われてしまえば一気に机上の空論と化してしまう危険もありますしね。理論の問題ではなくて感情の問題ですから。

世代的な断絶はあるかもしれませんが、私としては「俺はこう思う。どうだ!」と投げかけて、それが受け手にとってピンとこないものだったら「あれ、ダメか。ならこれはどうだ!」てな感じで、大人はもっとジタバタして欲しいもんです。「これはこういうもんだ」となっちゃうと創作活動って終了しちゃいますからね。たぶん。

作品、編集段階ですか。一番面白いとこに来ましたね。作品って完成して人に観てもらうと思いもよらない受け取り方をしていたりするので、そこがまた面白かったりしますから楽しんで完成させてください。

効果的なBGMが流れる中、郷隊員と上野隊員のナレーション風な会話とともに余韻を残しつつ終わったあの作品に、果たして本当に続編が必要だったのでしょうか。
『怪獣使いと少年』の続編・リメイクなんて、このシリーズにかかわっているシナリオライターなら誰も書きたがらないと思います。
あれに後日談をつけるのはいろんな意味で難しいですし、ある意味アンタッチャブルな話と言えないでもないですから。
上原正三氏にプロット託され、頼まれてというのなら別かもしれませんが。
でも、かかわりの薄い人ならばアンタッチャブルな思いなんてないでしょう。そしてその人があの作品だけは好きとかいう作家だとしたら、その続編だけを書きたがるのではないでしょうか。
加えてその人が直木賞という看板を背負っていたら、制作プロダクション及びプロデューサーは、ドラマの箔が付くということで諸手を挙げて迎え入れるのでは? アンタッチャブルなにするものぞで。
実際に確かめたわけではなく、私の推測、下衆の勘ぐりにしかすぎないのですけどね。
ただ今回の話、台詞にたより過ぎという気はしました。シナリオライターではなく、小説家の手によられると、よくこうなるのですが。

>KEIKOさん
BGMつながりで思い起こされるのはウルトラセブンの「ノンマルトの使者」ですが、これと「怪獣使いと少年」に登場する2人の少年が視聴者に叩きつけた言葉には沈黙するしか無いわけです。
そして、その言葉について視聴者それぞれが各々違った解答を見つけてゆく。それが心の豊かさにつながるのだと思いたいですよね。

誰かがしゃしゃり出てきて自分の解答を発表されても、それは単なる迷惑以外の何ものでもないような気がします。それが誰であろうとも、です。

とにかく、この2作について私が思うのはたった一言、

「そっとしといてください」

です。

続編が陥ってしまう凡庸な展開として多いのは「前作の解説に終止する」ことですよね。例えば「2001年宇宙の旅」に対する「2010年」のように。勢い続編は多弁になってしまいます。これは回避しようのないことでしょうけれど。

最近の映像作品は、キャラクターの行動原理の大半が

「自分の考えを述べる」

だったりしますから、当然対話型のディスカッションドラマになっちゃいます。おかげで映像上でのキャラクターの立ち居振る舞いのダイナミズムが失われてきましたね。これならノヴェライズでも読んだ方がマシな気もしてきます。
メビウスの別のエピソードでも、つい
「あんた、目の前で大変な事が起こってるのに、呑気にそんなこと言ってる場合か!!」
と心の中で突っ込んでしまうことがしばしばあります(笑)。

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