2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

twitter

2006年12月 3日 (日)

「唐沢俊一のポケット」

実相寺監督追悼の特別番組でしたが、特に気負った感じもなく、唐沢氏と中野氏の酒飲み話のような感じが好ましかったです。
宮内氏に対するお話が無かったのは残念ですが。

昨日は「ウルトラQザ・ムービー」のメイキングビデオを観ました。
みんな若いのは当たり前ですが、実相寺氏のコメントがなんだか楽しげで、映画作りを満喫されている雰囲気が微笑ましかったです。
監督の実相寺氏、脚本の佐々木氏、特技監督の大木氏、音楽の石井氏と、皆さん鬼籍に入られてしまったのは本当に残念ですが、考えるに
「ああ、これが歳を取るということなんだな」
と実感してしまった次第です。

久しぶりに「帝都物語」と「ウルトラQザ・ムービー」の本編も観てみることにします。気分も切り替えましたから、楽しんで鑑賞できると思います。

余談ですが、くだを巻くオタクオヤジに付き合ってくれたKK氏に感謝。
ではでは。

2006年12月 1日 (金)

日本映画専門チャンネルのホームページに

実相寺監督についての一文が掲載されました。

http://www.nihon-eiga.com/topics/index.html#100026

ーーーーーーーーーーーーーーーー引用
日本映画専門チャンネルでは実相寺監督作品の放送を鋭意検討中です。決まり次第、当ホームページにてお知らせいたします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

編成の流れから行くと春頃になるのでしょうか。
作品の放送はもちろんですが、密度の濃い特別番組の制作を期待します。
スタッフのみなさん頑張ってください。

実相寺昭雄監督追悼番組。

本日放送のTBSラジオ「唐沢俊一のポケット」は予定を変更して
実相寺昭雄監督に捧げる特別番組となるようです。

http://tbsradio.cocolog-nifty.com/pocket/

ラジオはさすがだ・・・。

おそらく日本で唯一の追悼番組になると思いますので、聴取可能な方はぜひ。
唐沢氏のことですから、当然、宮内國郎氏の功績にも触れられるはずです。

私も、気分を切り替えて楽しく聴きたいと思ってます。

ーーーーー追記ーーーーーーーー

書き忘れました。ポッドキャスティングの配信もされてますので、一部ですがパソコンで聴くことが出来ます。

2006年11月30日 (木)

作曲家の宮内國郎さん死去

http://www.asahi.com/obituaries/update/1130/007.html

ああ、もう今日はダメだ。本気で涙が出てきた。
いくらなんでもあんまりだろ。

実相寺昭雄さん死去。

たった今知った・・・
何を書いたらいいのやら解らないのでとりあえずここまで

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記:少し落ち着きました。すいません、検索でこちらにおいでになる方もいらっしゃるようなので、ソースへのリンクくらい貼っておくべきでした。

とりあえず。

http://www.asahi.com/obituaries/update/1130/003.html?ref=rss

私は TBSラジオの「森本毅郎・スタンバイ!」で知りました。

森本氏が TBS時代、面識があったそうです。
当時はプロデューサー同士の交流が活発だったそうで、実相寺氏の著書にもよく名前が引っ張り出される並木章氏などの名前を挙げて、
口は悪いが仲は良い、といった表現で当時を懐かしみながら夭逝を惜しんでおられました。

「シルバー假面」が完成され、公開を待つばかりのタイミングでしたから本当に驚きました。

先日聴いた、同じく TBSラジオ「唐沢俊一のポケット」で脚本担当の中野貴雄氏が実相寺氏監督が監督されたエピソードについて、尺の長さに比したカット数のあまりの多さと、説明に窮するような作品内容に
「ご飯食べずに観に来てください」と発言されており、
ああ、ますますお盛んだなぁ、と鑑賞を楽しみにしていたのですが。

なんだかわからないですが、今正直な気持ちとして
「なにかが終わった」という気がしてます。
その「なにか」ってなにって聞かれると今は「なんだかわからない」んですが。

いずれにせよ、ご冥福をお祈りいたします。

面白い作品を沢山ありがとうございました。さようなら。

2006年11月19日 (日)

「怪獣使いの遺産」

なんかずっと引っかかっていて、ぼんやりと考えていたんですよ。

「問題作」と言われる作品の場合、オリジナルの制作者以外の人が続編やリメイクをするとなると、前作が問題提起として投げつけたものについて「私はこう受け止めましたよ」という解釈の提示が大前提にありますから、
視聴者としても「あなたの解釈はもっともだ。支持しますよ」と言うか「ああ、そう受け取りましたか。私は違うと思いますけど」と言うかの2種類を基本にして、その間にグラデーションがかかった意見分布になりますよね。この場合、視聴者の括りにオリジナルの制作者も含まれるでしょうけど。

前作「怪獣使いと少年」の場合、少数派(ここでの場合メイツ星人&浮浪孤児の少年)を異分子として数の論理で廃絶しようとする多数派(周囲の住民=日本国民&警官=国家権力)の対立があり、その狭間に立ってしまったウルトラマンとMATの無力な様(これは視聴者と同じ立ち位置と考えて良いでしょう)が物語全体の軸になっています。
最終的にメイツ星人は混乱の中で警官の誤発砲により死んでしまい、生前のメイツ星人が少年(=地球人)を救うために封印した怪獣が出現し、(結果的に)住民たちを粛正するがごとく破壊を開始します。

ウルトラマン=郷秀樹は、怪獣をやっつけろ、という住民の声を心の中で非難し、変身をためらいます。怪獣出現の(文字通り)「引き金」を引いたのは無知、無理解な住民の人間性そのものだったからです。このあたりの展開は当時子供だった私も固唾を呑んだものです。目の前では怪獣によって刻々と街が破壊されてゆきます。しかし、あんなに身勝手な住民を救う意味があるのか。

しかし、ここでシナリオは意識的に、これまで無力だったウルトラマン&MATの立ち位置を前面に押し出してきます。
「帰ってきたウルトラマン」というテレビシリーズ全体の基本設定構造から言って、ウルトラマンは(人類からすれば)「人類にとっての平和と正義の味方」であり、郷秀樹はMAT(モンスター・アタック・チーム)の隊員であり、人類の生命と財産を脅かす者と戦わねばなりません。これはウルトラマン&MATに与えられた、この作品世界における義務であり責任だからです。

羊の群れのように徒党を組んで多数=正義のように振る舞い、少数派を封殺しようとする者たちに対し「どうしようもないものだ」という達観というか諦観を抱きながら、しかしそれを義務と責任感において救わなければならない。
そういった苦悩を昇華した形なのでしょう、僧の姿で現れたMAT隊長・伊吹の言葉によって郷はウルトラマンに変身し、怪獣を倒します。

ここまでの展開でも解るように「〜遺産」は「〜少年」と比較して細かいエピソード配分の違いやキャラクター配置の差違はありますが、それを無視すれば物語構造の意味性はほぼ相似形とも言えるものです。
最大の設定上の差違といえばヒカリ=メビウスが地球人に正体を明かしたウルトラマンである点で、それが問題解決の助けになっていない事が揶揄されるかもしれませんが、メビウス=ルーキー=未熟者というシリーズの基本設定からすると当然とも言えます。

しかし、こと結末については両者は大きく異なった印象を残します。
「〜少年」ではメイツ星人の死後、再び天涯孤独となった少年が、どこかに埋もれているはずのメイツ星人の宇宙船を掘り出そうと、ただただ無心に穴を掘り続けます。事件のあと、何事もなかったかのように静まりかえった風景。恐らく住民たちも何事もなかったかのように「これまでと同じ」生活を続けているのだろうということが子供心にも感じられた、やるせない結末です。

それに対し「〜遺産」は、今回起こった事件をきっかけとして未来に希望を託そうという極めてマイルド、意地の悪い言い方をすればうやむやな結末です。
「変わっていこう」という「決意」というより「変わって欲しい」という「願い」を強く感じます。
これを表題通り好解釈するか、自分たちで問題を解決出来ず先送りにした、大人の責任放棄と捉えるかは現在の主たる視聴者である子供たち次第なのでしょうから、私がどうこう言う事ではありません。

ただ、大人であり親である私としては、これからの世代の自然な変化を大人たちが一方的に望むようなニュアンスは、子供たちに対する無条件な性善説の押しつけのような印象が私自身ありますし、そういう解釈からすると、この未解決の問題は後世(作品世界内でのもの)においては「遺産」どころか「負の遺産」になりかねないのではないかという気もして、少々複雑な気分になってしまいました。

いずれにせよ、今回の「〜遺産」は続編やリメイク製作ということについて色々考えさせてくれる機会をもらったという点では意義があったと言えるでしょう。

余談ですが、ちょっと別な展開の妄想もしてたんですよ。

もしメイツ星人が一人ではなく「侵略者を撃て」の時のバルタン星人のように数億人が乗った宇宙船で使節団としてやって来たらどうなったのか(数の論理の反転)

もしウルトラマンと戦うのがムルチではなく巨大化したメイツ星人だとしたら、作中の幼稚園児たちはやはり「がんばれメビウス!」と叫んだに違いないだろうな、とか(正義と悪の判別が美醜の区別と繋がる怖さ)。

まあ、すぐこういう事を考えてしまうのがオタクオヤジの困ったところですが(苦笑)。
なんかウダウダ書きすぎましたが、おかげでなんだかスッキリしました。

2006年10月12日 (木)

ダークスター

 レンタルDVDで「ダークスター」を観る。
無名時代のジョン・カーペンターがダン・オバノンやロン・コッブ、グレッグ・ジーンなどの面々で作った1974年の超低予算SF映画。
これまでなかなか観る機会が無かったけど、こういうものまで気軽に観られるようになったのは良いことなのでしょうね。
昔は輸入ビデオのカタログを眺めて指をくわえているしかなかったわけで。

 現在の尺度で観ると未熟な技術の退屈な自主映画に思えるんでしょうが、これを「スターウォーズ」の4年前に公開したことのすごさ。

 登場人物達の「退屈な宇宙旅行」に飽き飽きした姿。落書きや、破れたピンナップだらけの薄汚れた宇宙船内。
杓子定規なメインコンピュータや屁理屈をこねては爆発したがる惑星破壊ミサイル。
 ビーチボールにペイントして店で売ってるビニール製のオモチャの手を貼り付けた出来合いの物なくせに乗組員を絶体絶命のピンチに陥れるエイリアン。

 当時としては画期的なビジュアルSF(懐かしい響きだな)が、これまた当時の世相を反映した、おそらく意図的な「ダルさ」で展開するわけです。

 「スターウォーズ」の存在を初めて知った少年サンデーのカラー写真(その時点では邦題「惑星大戦争」。その記事は今でも大切に取ってある)に大きく載ったサンドクロウラーのキャタピラのセットに衝撃的な実在感を感じたものですが、その原点はこのあたりにもあったのですねぇ。
 SFとはいえ、登場する機械は新品ばかりじゃなくて使い込んでるはずだろ。という、当たり前のはずなのにSF映画発祥の頃から誰も気づかなかった事。
それに「気付いた」だけでこの映画は素晴らしい。

 この映画が以後に与えた影響は計り知れないですね。もしこの映画を(本来は「フラッシュゴードン」を映画化したかった、と伝えられる)ルーカスが観ていたとすれば、そういったSF空間に自分の部屋や台所の雑然とした生活空間を取り込んでこれまでにないリアリティを表出しようと考えてもおかしくないし、その中に自分の個人的な趣味性を発揮しても構わないんだ、と思ってもおかしくないし。
 だって、XウィングやYウイングのコクピット以降のむき出しボディって、レーサー志望だったルーカスの憧れだった(当時の)F-1のデザイン構成だし、デス・スター攻略開始の瞬間にXウィングの翼が展開するのは「今こそレースだ」の合図が欲しかったんですよねえ(何同意求めてんだ)。

 以後オバノンは「エイリアン」でビジュアル・コンサルタントをやってギーガーを招聘して圧倒的なエイリアン像を作成し、デザイナーのコッブは同作で前代未聞の宇宙船内部のリアリティを担当したわけ(「ホント、「エイリアン」の船内描写は「ダークスター」延長上ですね。オバノンとコッブの功績が大きいことが改めて確認できた)。あの、スクラップをかき集めて作り上げたセットの迫真性は凄かった。当時もの凄い衝撃受けたし。
 ゲレッグ・ジーンもこれ以降、当時のアメリカ特撮にあるまじきミ(?)ミニチュア特撮で楽しませてくれた(特に「未知との遭遇」」のUFO出現、停電さわぎあたりのロングショットのミニチュアとか。ミニチュアに見えないか。ついでに「ワン・フロム・ザ・ハート」の壮麗さとかね。)

 繰り返し言いますが、これを読んでくれた人が面白いんじゃないか、と思って観られると困りますが、この映画、いま観ても絶対面白くないですよ。保証しますけど面白くないです。訳の分かんない連中が訳の分かんない事をダラダラやってるだけの映画です。作為的に。いちげんさまお断りらしいですから。
でも、これには意味があるんでしょう。いや、意味があったんです。少なくとも俺には。

 あー、なんか過去の、しょーーーもない作品に頭がグラグラしましたわ。
でも、そんなのがやってみたい。しょーーーもないこと。 


 余談ですけど良いですよ。今聞いてるTOTOの「No End In Sight」。

寝ます。

2006年9月 6日 (水)

特撮の神様。

 昨日からNHK教育テレビの「知るを楽しむ」で円谷英二についての講義が始まった。講師は唐沢俊一。
 ニュートラルな立ち位置で、「日本の特撮」を大きな視点で批評するやり方には好感を持った。今後が楽しみ。
 アメリカ人は日本のぬいぐるみ「怪獣」特撮を「チャチ」だと酷評し、日本人はアメリカのストップモーション・アニメ「モンスター」特撮を「オモチャ」だと取り合わない事実を、なんだか懐かしく思った。こりゃ多分マンガ少年別冊に載ったマンガ「日米特撮合戦」のせいだな、たぶん。

 しかし1960年代には日本の円谷、アメリカのL・Bアボット、イギリスのメディングス、ソ連のプトゥシコなどがミニチュア一発撮りを主体にした特撮で(つまり、ほぼ同じ技術で)腕を競った時期があった事実も認識すべきだろうな。

 それは「マイティジャック」と「海底科学作戦」と「キャプテンスカーレット」をほぼ同時期に視聴できた、幼き俺っちのメカ三昧の日々でもあったり。

2006年6月18日 (日)

ポスターの記憶から。

 会社員時代にもらったポスターが不良在庫のように収納を占拠しているので部屋を掃除するたびに順繰りに張り替えた後処分している。
 何か、ポスターたるもの一度は部屋に飾ってやらないと成仏しないような気がして何となく気が咎めたので。
Img_0808_1  じっと眺めていると、もらった当時の記憶がほんのり甦る。ああ、これもらった時は期待に胸膨らんでたなぁ・・・。バブル経済と海外コンプレックスの産物。
この時期の映像作品は今一度検証して、その功罪を総括するのも面白そうだな。

 「ウルトラマンG」の記憶上の美点はオーストラリアでオープン撮影した抜けるような青空だったが、設定・ストーリーがそれに似合わず爽快さに欠ける物だった。編集テンポも緩慢で、むやみに高速度撮影された怪獣とウルトラマンのアクションは鈍重さばかり目立った。
 メカの発進シーンをはじめ、初期の話数は精密なミニチュアワークが堪能出来る物だったので非常に惜しい。
 編集に関しては劇場公開版でかなり改善が加えられて迫力が増していたが、フィルム撮影・ビデオで完パケという制作形態が災いして、前編キネコのぼんやりした頼りない映像だった。

 初動時に導入したパペット特撮が余りの迫力不足で取りやめになったそうだが、ぬいぐるみ特撮に変更後のラッシュを観た段階でも日本側スタッフは「こりゃまずい」と思ったはずだ。いや、思わないわけが無い。なにせ、これ以前に「西遊記」「スターウルフ」「ウルトラマン80」の特撮映像を作り上げた会社だ。
 この段階で撮影スタッフを再編して、ぬいぐるみ特撮に熟練した日本人スタッフを送り込むことも出来れば事態は改善したかもしれないが、海外作品故契約の問題もあるだろうし、当時は日本の特撮作品も層が薄かったため人材不足だったということもあったろう(すでに現在の特撮作品を支える人々は注目すべき作品を発表していたはずだが)。まあ、ここは想像。

 しかし、続く「パワード」では、さらにややこしい事になっていた事を考えるに、やはり民族的な意識の違いがあることを企画に・制作に織り込む判断が不足していたのではないかと思う。難しい話ではなく、単に

 「○○というものはこういうものだ」

という確信というか思いこみがお国柄で違う、という初歩的な部分でボタンの掛け違いが起こっているはずで、これに企画初期段階で気づくはずだったのだ。これは作品のセールスにも関わる事なので最優先事項なはずだが。まあ、これは門外漢の戯れ言。

 しかしこの2作品に「マイティジャック」や「スターウルフ」や「ウルトラマン80」のような愛情が今ひとつ感じられないのは、なにやら「俺はやったぜ」風な最近の特撮作品に感じる「独善的なニオイ」のせいかもしれない。個人的感想。

 なんか今日は文章が硬いな。風呂入って寝よう。

2006年6月 9日 (金)

ウルトラマン先生

 ウルトラマン80ですよいきなり。いや、ふとこの所のオレ的テレビまんが主題歌ブームで思い出しただけですけどね。
 愛せる作品というのはありますね。出来が良くなくても。失敗作というのとは違うんですけど。失敗作ってのはもっと身の毛のよだつほど嫌悪する作品を指すので。あれとかこれとか。
 マイティジャックとかスターウルフとか、このウルトラマン80とかには非常に愛情を感じます。
「いっぱいお金かけて一生懸命作ったんだけど視聴率とれなかったよ。グスン。」
・・て感じがラブリーですわ。当事者はラブリーどころじゃないだろうけど。

 別にウルトラマンが先生だって構わないと思うんですよ。可能性、というかウルトラマン本人の選択として。おお、これだ、と思ったのなら。小さな事からコツコツとやらなきゃいけない、と判断したんでしょう。「エイティ」くんは。いいですよそういう解釈で。
 金八先生ブームだからウルトラマンも先生でやるか、と誰かが言い出して、おい、それはやめとけよ先生でウルトラマンなんてどうやってドラマ作るんだよ、とかそういう「なんだかなー」な企画会議を突破したというのはそれはそれで凄いし。わりと今現在のオレはそういう企画の流れ好きだし。

 ただ「ウルトラマン」が「先生」になる、とういうことを昇華してみせられる脚本家がいなかった・・・のか的確に発注出来る人がいなかったのかは不明だけども・・・いや、やはり企画が曖昧だな。生徒の人数分ドラマが出来る、という発言が当時あったと思うけど、そんなに甘くないでしょうに。30人いようが40人いようが、ドラマとして成立するようにカテゴライズしていったら、パターンはいくらもあるわけは無し、おまけに「ウルトラマン」と「怪獣」と「先生」をまとめてドラマ上に成立させなきゃならない。これはキツいですよ。そのキツイ所に時間と手間をかけるのを惜しんだんだろな。

 第1話を”思い出す”限り、「このままでは(当時の)ニューファミリー潮流に巻き込まれて子供はクソ野郎になってしまう」と思う矢的猛と(勝手な解釈ね。でもそれほど的はずれじゃないと思う)「このままでは実戦の恐ろしさを知らず平和ボケしたUGM隊員はクソ野郎になってしまう」というオオヤマキャップが手を握って、「俺達の力でなんとかしようぜ」な話なわけで、これはこれで面白くなる可能性はあったんだけど。ちょっと過激だ。だが恐らく当時の誰も理解していない。当時のオレも。

 結局「ウルトラマン先生」の成しえるドラマとして面白かったのは第1話「ウルトラマン先生」、第3話「泣くな初恋怪獣」第12話「美しい転校生」の3本か。

 特に「泣くな初恋怪獣」は、猛の担任である男子生徒の失恋を発生源とする怪獣の出現に対して、矢的猛はあくまで生徒に「先生」として接したが、男子生徒のやりきれない感情(怨念=マイナスエネルギー)が怪獣として暴走し、片思いの女子を怪獣(=男子生徒)が殺そうという瞬間、男子生徒は自分が発生させた怪獣の成り立ちを理解し、完全に否定する。

 それを見てはじめて「先生」猛は「ウルトラマン」に変身する。
記憶は定かではないが変身する前に「よし、それでいい!」という台詞があったはずだ。

「怪獣」が発生する原因は誰もが持っている。それを自分自身でどうにも解決できない時。そんな時に出現する、首が痛くなるほど見上げる巨人。それも中学生の味方。それがウルトラマン80の面白い所かな。

 方針転換後の、なんか腰が据わってない感じの「UGM編」もやけくそ加減が面白い「子供編」も、それはそれでおもしろいですよ。ミニチュア特撮スゲーですし。円谷さん、DVDよろしく。

 今日は長文だな。冬木氏の音楽がいけない。

より以前の記事一覧